2017/09

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訳あって2週間程、東京に滞在していた。
当たり前やけど、神戸とは全然違う。
当たり前やけど、人がめちゃくちゃ多い。
そうなると当たり前やけど、老若男女、幸せそうな顔の人、しんどそうな顔の人、笑ってる人、泣いてる人、etc...
様々な人達が行き交う。
目的を持って、はたまた特に訳も無く。
でも、なんかそういう色があるのは良いなーと。
今回結構多く見かけたのは、それら感情すら読み取れない「無」の人達。
勿論、「東京が〜」とか「都会は〜」とかナンセンスな事を言う気はさらさら無く、それは前述した様に、東京という流動的な船に乗り込む乗組員の絶対数が多いからに過ぎないと思う。
だからこそ街が変わると気付く。
日常の中で見逃していまいがちな"色"を。
当たり前やけど不幸にはなりたい人などそうそう居ない。(中には無意識か意識してかは分からないが不幸になろうとしてしまう癖が染み付いている人もいる。それを俺は潜在的Mだと思っている。まぁ、それは別の話...)
けれど、そういった様々な人々のコントラストを見ていると、やはり幸せを感じる上で不幸は必要なのだと思う。
様々な事に人は幸せを感じるが、幸せが自然発生する事は、余程"気付ける人"でない限り中々無い。
それは「与えられたり」「与えたり」する事象として+または×に作用するものもあれば、「乗り越えたり」「解決したり」する±0にする事だったりする。
個人的な感覚では、何故か前者より後者で得る幸福感の方が強い。
というか、達成感を内包し一種の自己陶酔に似た謎の自信を伴って、長く"効く"気がする。
恐らくそれは、置き換えに近い感覚。
実際は問題など起こらない方が良いし、たとえ解決しても±0が殆どである。
しかし、それでは、それだけでは駄目なのではないかと。
先にあった通り、我々は基本的には幸せになりたいのであって、不幸にはなりたくない、故に回避出来ない問題に直面した際、例え高い壁を越えて進んだ1mでも、ボーッと進んだ1mでも変わりはないという事実を認めたくない。
だって幸せになる為に生きているんやもの。
だから、高い壁を越えた時、つまり不幸を乗り越えたり、状況を好転させた時に幸せを感じる。
不幸にはなりたくないが、不幸がある方が幸せになりやすい(気づきやすい)。
とまあ否定的に描いたけど、果たしてその進んだ距離ってホンマに大事なんかなーというのが自分の正直な気持ち。
ベタやけどその進める距離って人によってバラバラで、若くして死ぬ奴も居れば、粘り強く100歳越えても元気な人も居る。
そうなった時俺はやっぱり凸凹があって時にはしんどくても、楽できる時もあったり、なんやかんやある方が純粋に楽しい気がする。
感情に蓋をして激しい幸福を感じなくても痛みを回避するよりは傷だらけで汚れまくってもなんとか笑える方が好きやなー。
まあ元も子もない事言うと誰彼構わずそういう色を見せるのは良くないという考え方もあるんやろうけど...
人生色々、なんでも有りで何も無し。
どうせ最期には灰になるんやからそれまでは灰色や無くて変化していく万華鏡のような人間になりたいなーと思ったのでした。