2019/10

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久々に脳が活性化している...

と言いつつ、新曲の歌詞、というかボーカルパートのアイデアが中々出てこなくて

ヴオォォオオォォォオォオオオオイ!!!!

となっております。

出来れば15日に神戸太陽と虎でライブがあるので、そこで披露出来たら、

否!!

披露できるようにします!!!!



さて、最近は非常に自分のルーツに立ち返る様な機会が多く

改めて色々と考えています。



memento森の名前のルーツ

mementomori

死を思え



そもそもおセンチBOYだった幼少期から

爛れた妄想にどっぷり浸っていた私は

年齢を重ねる毎に妄想力も落ち着くどころか

日に日に乱反射していき

ええ歳になった今でも、

お化けや妖怪、UFOやUMAなどの得体の知れんモノや

「生きるって何??死ぬって何??」とか

あとは、下ネタやご飯について...

みたいな事を日がな考えて過ごす、

糞サブカル崩れみたいな

大人になってしまった訳です。



で、まあ話がそれましたが。



最近また己の死生観について自問自答しているのですが...



我々は生という入口から死という出口(逆の発想で捉えることも出来ますが話がややこしくなるので割愛)

まで一方通行の道を否が応でも進んでいます。



その歩いている状態が今、現在の"生きている"という状態を指す訳です。



しかし、不思議なのが"死という誰でも分かる明確なゴール(もしくはリミット)"があるにも関わらず、

それ(死)自体を普段

意識するどころか、感じる事すら滅多にありません。



めちゃくちゃポピュラーな、誰でも知っている事にも関わらず

遠ざけて生きている。



当然といえば当然です。



我々人間だけでなく大半の生物は"死"を回避して"生"きている訳ですから、

通常ならば、そらもう、怖くて怖くて、外も出歩けなくなってしまうでしょう。



しかし、果たしてそれは嫌悪する事しか出来ない対象なのかと考えると、

そうでは無いと思うのです。



普段誰かが生まれたり、何かが始まった時は、

皆凄く楽しそうに声を大にしてその話題を話す

にも関わらず

誰かが亡くなった時、何かが終わりを迎えた時には、

皆声のトーンを落とし暗い表情で言葉に詰まる



ましてや死因が自殺なんかだったりすると、

皆怪訝そうな表情を浮かべ、様々な推測で故人を痛ましい

被害者として祀り上げ、自分まで落ち込んだりする



勿論、そりゃそうでしょう

もし、自分の身内や大切な人の葬式で凄く

楽しそうに声を大にして話してる奴がおったら

「この!ボケが!!TPOわきまえんかい!!」

と憤怒する事でしょう。



しかし!!

しかしですよ!!



何故か人は生まれたものや、始まった事物よりも、

"死ぬ事"、"終わる事"への興味関心の方が

強く強く印象に残り、

事実中にはその感傷に浸りたがる人ですら居る。



表面的には暗い表情で言葉に詰まりながらも

自身が直接的関係者でなければ、

前述したように、

特に仲が良かったわけでも無い故人の美談や

絵に描いたような悲壮感たっぷりのストーリーテリングを始めたがる。

そんな人がいるというのも事実。



これは死を崇高なモノとし、生活から遠ざけ過ぎた、

人間の過剰な防衛本能の副産物では無いか

と俺は思うのです。



我々は生きているモノに関しては

年齢、性別、国籍、家族構成、宗教や果ては学歴、収入に至るまで

様々な形で区別し、幸せであるか否かを

細かな価値観で見ようとする。

古典的なもので言えば童話の「王子と乞食」にあるように、

富か自由か、という風に、それぞれの価値観を慎重に判別しようとする。





にも関わらず



殆どの死に関しては

悲しみでしか捉えようとしない。

中には「大往生でしたね。お疲れ様。」というような暖かな場面もあるかもしれない。

しかし、我々が"死"と聞いて感じるのは、

皆一様に絶望と悲哀だったりする訳である。



これは本当に不思議だなと思うのです。



勿論、自分の身の周りの人たちには死んで欲しくないし、

家族や友人が亡くなったとなれば、

本当に絶望の淵に落とされた様な気持ちになると思います。

しかし、それはあくまでも「俺の気持ちであり主観」

なだけであり、一番重要なところは、

これまた"幸せ"と同じく

"死んだ本人しか分からない"

ことなのではないでしょうか。





死人に口無し



とはよく言ったものです。

生に対しての気持ちは本人の口から確認する事も出来るでしょう。

しかし、死に対しての気持ちは本人から聞くことは出来ません。

だから死に対して見聞きする事が多いのは、

残された(これもまた故人に対して押しつけがましい言い方ですが...)我々の気持ちである、

悲しみや絶望ばかりです。



予期せぬ事故で志半ばで悔しい思いで亡くなってしまう方も居るでしょう



災害に巻き込まれて家族の事が気がかりなまま亡くなってしまう方もいらっしゃると思います



しかし反対に、



苦しい病から解放されたとホッとする方も



周りに虐げられ、死んだ様に生きる事から無事逃げ出せたと穏やかな気持ちになったり



はたまた酔っぱらって、二日酔いで重たい瞼こすって目開けたら天国おった(俺は死ぬなら是非これが良い)

っていう人も居るかもしれません。



しかし、それは誰にも分からないし、

上記のどのパターンだって俺の妄想にしかすぎません。



俺は思います、

生きている事にも死ぬ事にも特に意味は無い。

生まれたてのプレーンな状態の時には我々は

まっさらで、

そこから様々な環境で育っていき、様々な人と出会い別れる度、

人生とやらに絶妙な(時としてどぎつい)味が出てきます。

その味がまさに、

生きる事、死ぬ事の"意味の様なモノ"

なんだと思います。

その味を旨いと思うか、不味いと思うか

人によっては辛かったり、甘かったり、苦かったり、酸っぱかったり

その味を決めるのは自分自身でしかないのです。

語弊があることを承知の上で言います。

生きることを無責任に強いる事は「死ね」と言う事と同様に罪深いと思うのです。

勿論、誰も死んで欲しく無い、皆幸せになって欲しい。

それを前提として、誰かが悩んでいる時、「生きていれば良い事あるって!!」

その言葉に、我々はどれだけ責任をとれるのだろうか。
自分の親族の面倒をみることすら相当大変な労力を要するのに、
その人の面倒を最後まで見切れるのだろうか。


希望的観測で、その人が背水の陣だった時、
その夢が敗れた時、

「大丈夫!!大丈夫!!」と手放して言っていた我々はどうやって責任を取るのだろうか。


勘違いせずに最後まで聞いて欲しい。

散々前述した様に、命には必ず終わりが来る。

だけれど自分の好きな人には、自分より先に逝って欲しく無い。


当然。

しかし、それは相手の為では無く自分のエゴであるという事を理解しなければならない。

その上で...

救いがあるとすれば。

ほんの些細な事で死んでしまう様に、

ほんの些細な事で人は生きれるということ。

花や動物に水や餌をあげる人間が自分しか居なかった時、

たまたま天気が良かったり悪かったり、

体調や、気分、たまたま聴いた音楽や、たまたま観た映画やったり。

だから、俺は最後まで諦めないでおこうと思います。

自分の鳴らす音楽や言葉や、

はたまた酔った時に話す戯言や下ネタが誰かの生きる可能性になる事を。


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